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“イテコイ“人(びと)に「引き算」人生を学ぶ

2020.12.01 事業所の日常

おはようございます。言語聴覚士Oです。
先週宮古でこんな方にお会いしました。失語症としては最重度で、相手が何を言っているのかほとんど分からず、言葉は意味不明の外国語のような音の羅列「ジャルゴン」と言われる言葉しか発することがおできになりません。お身体にも不自由があり、ご高齢ではあるものの、単身ご自宅に戻られ、地域の方々が生活を温かく見守り支え、一人暮らしを楽しまれています。

この方にお会いして、即座に思い出したのが、私が言語聴覚士になってまもない頃にお会いしたAさん。Aさんも同じくジャルゴン失語最重度。彼の口から出るのは「イテコイ、イテコイ‥」のみ。

自宅に戻られてからは明るさを取り戻され絶好調。補装具をつけてようやく独歩が可能にも関わらず、脱サラし漁師になったAさんは一人で船に乗って釣りに出かけたり、近所のパチンコ屋に行くのが日課。

訓練にいらっしゃると、「昨日は〇〇のパチンコ屋に行って云々」とか、「〇〇魚を釣った。」とか、栽培されたミカンを持ってきてくださっては「食べろ、食べろ」とか、ジェスチャーや絵を描いたり、表情の豊かさもあって、「イテコイ」語で全て交流でき、双方わかりあえた気になる、朗らかでとてもお茶目な人。奥様がこれまたすばらしく、「イテコイ」語にいち早く馴染まれ、夫が「イテコイ」人になっても動じることなく、夫婦漫才を楽しまれていました。

発症から一年以上経ってから、あらためて奥様に、ご主人とのやりとりはいかがですかとお尋ねすると、「病前よりあの人の気持ちがわかるようになりました。」とおっしゃる。

私たちも親しい人、思いのある人には、一言言えば、いや言わずとも視線、表情でわかることがありますね。また家族や恋人同士、会えば口喧嘩をしてどうしてこの人は私の気持ちがこんなにわからないんだろうと思っても、離れてみれば、ある時ふと、ああ、いまおそらくこう考えているなと、相手の心に通じることがあります。

言葉とは、便利で厄介なもの。
同じ言語を喋るから、通じ合うとは限らない。私たちはしばしば言葉を過信し過ぎていないでしょうか。私たちは表面的な道具でしかない言葉をいつのまにか万能とみなし、背後にある心を軽んじてはいないでしょうか。言葉によるこだわりを捨てた時、心は近づいていく。

意識する、しないに関わらず、私が、私がと、エゴに囚われるのが、凡人の常であり、それぞれが全く異なる人生を歩み、たとえ家族であっても異なる人格を持つ他人のことはわからないもの。わかったように、あいつはこうこうだと決めつける、決めつけたい、厚かましい” 己れの心情に気づくべきであり、特に医療や福祉、教育に携わる者は、得てして優しさという名の自己陶酔の罠に陥りがちな点に注意しなければなりません。

いや、本当の自分とはどうなのか。通常それさえも私たちはよくわかっていないことが大半でしょう。幼い頃から、こうあるべきとの教育を両親や学校から教えられ、いまのありのままの自分では不十分であり、常に自分ではない、「よりよい」自分をめざして努力し、優秀な自分を演じなければならない。そんな不安、焦りに駆られてはいないでしょうか。

私たちはこれまで「足し算」の人生を追求してきました。しかし、しばしば得たもので、実はさらに大切なものを失っていることはよくあります。

いまコロナ禍により、忙しさに自分を見失いがちだったこれまでとは異なる、自分と相対する時間を与えられ、従来とは異なる見方、人間関係のあり方が問われています。

それはこれまでの「足し算」の人生とは、根本的に違うものではないかと私は思っています。一見、「失った」と見える経験から、大きな生きる真実に出会うことがあります。いまのコロナ禍は、私たちがこだわってきた「上昇志向」とは異なる新しい生き方があることを、教えてくれているように思うのです。
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